神の唯一性とムハンマドが神の使徒であることを信ずるムスリムは、同胞として一つの共同体を形成した。これをウンマという。この意味でウンマは信者の共同体であるが、ユダヤ教徒やキリスト教徒などの「啓典の民」も、ムスリムに人頭税を支払うことを条件にズィンミー(被護民)として共同体内に留まることを許された。ムハンマド時代のウンマはメディナを中心とする狭い範囲に限られていたが、大征服の結果、ウンマの領域は飛躍的に拡大し、信者の数も都市部から徐々に増大していった。領域が拡大すれば、当然、ウンマ内部の問題も複雑となる。『コーラン』には、神の唯一性や最後の審判のような信仰の問題ばかりでなく、売買、婚姻、相続などの社会生活に直接係わる法的規範も記されているが、複雑多様化した問題をこれによってのみ処理することはすでに不可能となっていた。

こうして8世紀から九世紀へかけて、法学者たちは『コーラン』とスンナ(預言者の言行)にもとづくイスラーム法(シャリーア)の体系化に努力を傾注した。体系化の方法論として用いられたのはキヤース(類推)とイジュマー(合意)であるが、イスラーム法の形成にはユダヤの律法やローマ法も少なからぬ影響を及ぼしたといわれる。しかし、例えばローマ法が本質的には実定法であるのに対して、イスラーム法はむしろ信者が当然行なうべき行為を規定した道徳的義務論であったところにその特徴があるといえよう。しかも注意すべきは、国家によって定められた公のイスラーム法典が存在したわけではなく、学派ごとに、あるいはまた個々の学者ごとにイスラーム法の書があったにすぎないことである。オスマン朝のハナフィー派のように一つの法学派が国家公認の宗派となることはあったが、その場合にも、現実の裁判では信者が属する法学派に応じて多様な法律が適用されていたのである。学派間にそれほど大きな意見の相違がなかったとはいえ、このことはイスラーム国家の性格を考えるうえで極めて重要な意味を持つものといわなければならない。

イスラームと政治

前述したように、ウンマは信者の共同体であるが、それはまたイスラーム法が適用される国家領域、つまリダール・アルイスラーム(イスラームの館)でもあった。そしてウンマの代表としてこのイスラーム法の執行に当たったのが、スンナ派の場合にはカリフ(ハリーファ)である。カリフの権威は個々のムスリムが誓約(バイア)をすることによりはじめて公のものとなったが、このカリフにもいわゆる「立法権」は認められていない。『コーラン』とスンナにもとづいて立法し、これを解釈するのはあくまで法学者や裁判官などのウラマー(宗法学者)たちであつた。 一方、シーア派の場合には、アリー(第4代カリフ)以後のイマームは無謬であって、歴代のイマームには『コーラン』の内面的意味を会得する秘儀が預言者から伝えられているとみなした。しかもイマームはある時期から姿を消して「隠れ」(ガイバ)の状態に入り、終末の日にメシアとして再現するまでは、『コーラン』の秘教的解釈に通じた学者(ムジュタヒド)による統治が行なわれるべきだとする点で、スンナ派とは異質の政治思想を持らていたといえる。

もっとも、イスラーム世界で多数派を構成するスンナ派においてさえ、アッバース朝(750-1258年)時代に入ると各地に独立王朝が樹立されるようになったから、「カリフによるウンマの統治」という理想は現実の厳しい展開によってしだいにつき崩されていった。とりわけ10世紀半ばにブワイフ朝(932-1062年)がバグダードを陥れた後のカリフは、スンナ派ムスリムを統合する象徴としてこれらの王権に正統性を賦与するだけの存在となった。しかしこのような時代においてさえ、地方の諸君主はバグダードに朝貢使節を送り、カリフからその権威の承認を求めたことは、当時の国際関係がカリフを無視しては成り立たなかったことを示している。

このように、前近代のイスラーム諸王朝の多くはカリフからの承認を得て王国の統治を行なったが、イスラーム法の施行に当たっては、まずなによりも公正さ(アドル)が必要であるとされていた。法を無視して不正な収奪を行なう君主は、イスラームの精神にもとる者としてウラマーの非難を浴びたのである。多くのウラマーがムスリムの民意を代表して軍事政権を積極的に支持したことは確かであるが、不正な君主に警告を発することによって、支配者と民衆との間の緩衝役を果たしていたことも否定しえない事実であろう。