アラビア

イスラームは、七世紀のアラビアの人ムハンマドに始まる。彼は、はじめ、生れ故郷のメッカで人びとにイスラームを説いた。やがて彼はメッカを棄て、メディナに移り、そこを根拠地にして、教団国家ともいうべき組織をつくった。その組織の構成員は当時のアラビアの人、すなわち、アラブであった。

アラブとは、元来は「荒野の人」を意味する。もっばらシリアやメソポタミアの支配者や都市民が、荒野に住む、彼らからみれば「野蛮人」を指して用いてきた。そのアラブの住む土地がすなわちアラビアである。その地理的範囲は、今日のアラビア半島とシリア砂漠を含んでいる。そのアラビアは、南部の一部の山岳地帯を除いて、極端に雨量の少ない土地である。山も谷も平原も、海岸平野もあって、地形は変化に富むが、いずれも植生の貧弱な土地で、広大な砂漠も含んでいる。雨は冬から春さきに、気まぐれに、集中的にある。その時、降雨のあった土地では谷に急流が流れるが、その他の土地やその他の季節ではすべての谷は涸谷である。涸谷は人や動物の住処であり、通路でもある。気まぐれにでも降雨があれば、そこに人の生存は可能である。降雨のあとには大地は緑に覆われる。

その緑の草や枯れた後の枯草も家蓄の飼料となる。雨水は地下に浸み込み、地下水は井戸水や泉となって農作物や家蓄の喉を潤す。アラビアでは旧石器時代からの人類の居住が確認されており、紀元前三千年紀の都市や神殿の遺跡が発掘されている。南アラビアでは紀元前一千年紀からいくつかの王国が栄え、ギリシアやローマの人びとはこの地を「幸福なアラビア」と呼んだ。

そのアラビアの住民アラブは、5、6世紀には南アラブと北アラブに分かれていた。この区分は出自意識によっていて、自分たちの遠い祖先が南起源か北起源かを問題にしていた。実際には、アラビアの全土で南北アラブは入り混って生活していた。各地の自然環境に応じて、アラブには都市民も農民も遊牧民もいた。いつしか遊牧民、特にラクダを飼養する遊牧民が最も優れているとする価値観が広がった。その価値観を詩人が広めた。詩人の用いる言語、すなわちアラビア語も共通語になっていった。アラブは、詩人とアラビア語と共通の価値観を持つものとして、自らを他者と区別していった。その時、アラブは自らもアラブと自称した。このアラブは、「荒野の民」の意味ではなく、「明瞭な言葉を話す人」の意味で、「わけのわからない言葉を話す人」と区別する概念であった。このように、アラビア語の詩が発達し、遊牧民的価値観が普及した時代、5世紀半ばごろからイスラームの勃興までの時期を、今日の歴史家はジャーヒリーヤ時代という。

メッカ

アラビアの南北でのほぼ中心、東西では西の紅海寄りの、紅海に向かう涸谷にメッカがある。岩山に囲まれた荒地で、年間平均降水量は150ミリ程度である。何十年かに一度は大雨があって、谷間は洪水に襲われるが、普段は井戸水が豊富で、その点では人は住みやすい。ただ岩山だらけで農耕はできず、夏は四〇度を越す高温となり、決して健康的で豊かな土地というわけではない。
メッカに神殿があった。カーバと人びとがよんでいた。人びとはアブラハムがその建立者と信じていた。『旧約聖書』でイスラエル人の祖とされる人物である。同時に、その妻、エジプト女ハガルとの子イシマエルが北アラブの祖ともされている。カーバの守護者は、永らく南アラブ系の人であった。

カーバヘの信仰は古代南アラビア王国の宗教とも密接な関係があった。しかし、いわゆるジャーヒリーヤ時代には、南北アラブを問わずに、多くの人びとの信仰を集め、毎年多くの巡礼者を迎えていた。カーバの周囲、すなわち、メッヵとその郊外は、アラビアにいくつもあった聖地の一つであった。

南アラブ系のカーバの守護者を追って、新たな守護者となったのは、北アラブ系の人クサイイであった。預言者ムハンマドの五代前の祖先にあたる人物である。彼は、守護者の地位を手に入れてから、近親の人びとをメッカに集めて定着させた。これらの人びとはクライシュ部族として知られた。やがて、クライシュ部族の人びとは隊商を組織して、シリア、メソポタミア、エチオピア、南アラビアに出かけて取引する国際商人になった。そして、南アラビアを支配していたエチオピアの勢力が率いる大遠征軍の攻撃から聖地メッカを護った。さらに、近隣に定期市が開催されるようになった。毎年11月、アラビア全土から定期市に集まった人びとが翌12月、メッカに巡礼にきた。メッヵは、6世紀から七世紀初頭にかけて、国際商人の町と巡礼の町として急速に発展した。クライシュ部族の人口も増加した。また、娘婿や娘の子といった、父系ではクライシュ部族には含まれない、同盟者とよばれる人の数も急増した。奴隷や解放奴隷も少なからずいた。しかし、不思議なことに、メッカに首長はいなかった。統治のための組織は何もなかった。人びとは血縁を紐帯に何とはなしに秩序を保つのであった。首長や統治機構のない、高度成長途上の自由都市、それが、イスラームの勃興する7世紀初頭のメッカであった。

イスラームの唱導

預言者ムハンマドがメッカに誕生したのは、南アラビアの軍がメッカに進攻してきた年、570年のこととされている。それ以後に近隣に定期市ができて、メッカの発展は加速されている。しかし、ムハンマドは、誕生前に父を失い、幼時に母も失って、貧しい孤児として成長した。彼はクライシュ部族のハーシム家という集団に属していた。ハーシム家は名門ではあったが、強い力はなかった。孤児ムハンマドは、羊飼いもし、長じては叔父に従って戦争にも隊商貿易にも参加したが、財産に恵まれない立場にあった。

彼が25歳のころ、金持の婦人ハディージャの商品を預かってシリアで取引に成功し、じきに彼女の夫となった。以後二人の間には三男四女(男子はみな夭折)が生まれ、二人は平穏な生活を送った。

当時カーバには多くの神々の像が祠られていた。しかし、カーバの主はアッラーとして知られていた。ハディージャの従兄にワラカという人物がいた。ユダヤ教やキリスト教のいう、唯一絶対神・創造神の概念がアラビアにも普及していた。この時代、アラビアにはユダヤ教徒は少なくなく、アラブのキリスト教徒も多数いた。ワラカはそのような唯一神の信者で、禁欲的な生活を送っていた。ムハンマドはワラカらの考えや行動に影響されていった。カーバの主アッラーがその唯一神と考えられていた。

ムハンマドは、メッカ郊外のヒラー山の洞窟で瞑想にふけるようになった。610年ごろのそんなある日、突然、彼は異常な体験をする。全身が押しつぶされるような感覚とともに、「誦め」と命じられたと自覚した。彼はやがてその体験を、天使ガブリエルを経て神が彼に命じたものと考え、自らを預言者とした。

ムハンマドは人びとに警告し始めた。終末の日が近い、神を恐れよ、と。主として若者からなる信者集団が形成された。しかし、その数は、メッカの人口に比して、きわめて少数で、大多数の人びとは彼を冷笑し、無視した。ムハンマドは、カーバにアッラー以外のものを祠ることを否定し、富を独占する大商人を批判した。名門の人ムハンマドが少なからぬ若者を組織したことを、政治的な見方でとらえる人もでてきた。彼と信徒集団への迫害が始まり、その厳しさを加えていった。

ヒジュラ

メッカには統治機構はなかった。迫害は、個々の信徒への、その身内からの説得、いやがらせであった。その迫害に耐えかねた信徒の半分は、エチオピアに亡命した。ムハンマドの身内であるハーシム家の人びとは、信徒になった者はごく少数であったが、彼を迫害することもなかった。その代わりに、他の人びとがハーシム家全体を圧迫した。ハーシム家の人とは商取引をせず、通婚もしないと決めた。もっとも、このとりきめはあまり効果がなかった。619年、妻のハディージャが没し、じきに、信徒ではなかったが良き保護者であった叔父のアブー・ターリブも没した。これ以後は、ハーシム家の人びともムハンマドを迫害しはじめた。

エチオピアに亡命した人びとのうちの半分近くがメッカに戻っていたが、彼らに対する迫害は一段と厳しかった。彼らのなかには、身内から暴力でせめられる人もいた。ムハンマドも身内から汚物を投げられたり、悪口をあびせられたりした。この時期、メッヵは人口一万人程度の町である。信徒は、成年男子の数で80名程度。その家族を含めても、メッカでは非常に少数で、信徒が増加する見込みはなかった。

ムハンマドは、メッヵ以外の地への移住を考えた。三日行程離れた高原の町ターイフが第一候補であったが、町の人びとに移住を拒否された。結局、メッカの北方約二200キロのメディナの町の人びとの招きに応じて、そこに移住した。七十名余の信徒はばらばらに、それぞれの身内との縁を切って移住した。移住をヒジュラという。イスラームはこの移住を神の道へのヒジュラととらえている。このヒジュラのあった年、622年を紀元に、後にイスラーム暦が定められた。