イスラーム文明の特徴

イスラームが都市の宗教であることは前述したが、これを基礎にしたイスラーム文明もまた都市の文明であったといわれる。確かにイスラーム社会の人間関係は商取引の場合と同じく「契約」によって律せられていたし、豊かな消費生活や活発な文化活動も都市に集中された富を活用することによって営まれた。しかし別の面から考えてみると、国家財政を支えていたのは、多くの場合、農民から徴収される地租(ハラージュ)であり、膨大な都市人口を養っていたのも灌漑農業によって生産される豊かな農産物であった。しかも都市に移住した農民や遊牧民は、都市の生活様式を身につけた後においても、なおそれぞれの出自に固有な伝統や価値観を保持し続けたことを忘れてはならないであろう。

いずれにせよ、イスラームの都市は多くの人びとを引きつけるに足る文化的な魅力と経済的な基盤とを十分に備えていた。国家の発展につれて都市への人口集中が進み、9~10世紀のバグダードは約150万、コルドバは50万、14世紀のカイロも同じく50万、16世紀のイスタンブルは45万の人口を擁する大都市に成長した。これらの都市住民のなかでイスラーム文化の主要な担い手となったのは、ウラマーと呼ばれる宗法学者である。彼らは軍人や商人の保護を得て伝承学や法学、あるいは神学などの学問研究に専念したが、これらのウラマーのなかには商人出身者も数多く含まれていた。もちろんイスラーム文化は、「アラブの学問」にたずさわるウラマーによってのみ創造されたわけではない。例えば、九世紀にギリシア語文献からの翻訳に従事したのは、ネストリウス派やモノフィジート派のキリスト教徒および北シリアのサービア教徒たちであった。またこれらの翻訳を基礎に哲学、医学、数学、天文学などのいわゆる「異民族の学問」の発達に寄与したのは、たとえムスリムであったとしても、ウラマーとは別の範疇に属する学者たちだったからである。

ところで、強大なカリフの統治下で交通網が整備され、旅の安全が確保されるようになると、各地の都市を結ぶ人と商品の「交通」はにわかに活況を呈し始めた。これに呼応して各地の手工業生産も目覚ましい発展ぶりを示し、アッバース朝時代にはサマルカンドの紙、ダマスクスのガラスエ芸、チュニスの絹織物などの特産品が全国に流通した。イラクで開発された水利技術はまもなくアンダルシアの果樹栽培に応用されたが、これは農業や工業の技術が人間の活発な交流によって遠隔の地にも迅速に伝えられたことを示すものであろう。むろん旅をしたのは商人だけに限られなかった。数多くのムスリムが毎年メッカ巡礼を志して旅に出たし、学生たちも諸学を修めるために各地のマドラサ(学院)を巡って学問の旅を続けるのが習わしであった。このようにイスラーム世界の内部で旅による人間の移動が活発に行なわれたのは、隊商宿(ハーン)の建設がすすむと共に、古いアラブの慣習であるジワール(隣人保護)の制度がイスラーム時代になってからも長く生き続けていたからであろう。

異文明との対話

イスラーム文明は、支配者であったアラブ人がペルシア人、シリア人、エジプト人(コプト教徒)などの協力を得て築きあげた複合文明である。異文明との対話は長い時代にわたって行なわれたが、アラブ人が最初に接触したのはイラン文明とギリシア文明であった。その発端は七世紀初頭のジュンディーシャープール征服に求められる。イラン南西部にあるこの町には、ホスロー一世(在位531-79)によって学院が建設され、そこではギリシアおよびインドの学術がシリア語や中世ペルシア語によって研究されていた。ガレノスの医学書やアリストテレスの倫理学書は、ネストリウス派のキリスト教徒によってまずギリシア語からシリア語に翻訳された。ムスリムたちはこの学院での成果を学びとり、 ヘレニズム化したギリシア学術の継承者となることができたのである。また、インド起源のアラビア数字やゼロの観念もジュンデイーシャープールを通じてイスラーム世界に伝えられた。

ギリシアやインド学術の研究は、カリフ・マームーン(在位813-33)がバグダードに「知恵の館」を建設してから本格的に開始された。ジュンディーシャープールの学者たちもここに移って研究を続け、ギリシアの医学、哲学、倫理学などの著書が厳密な史料批判を経て続々とアラビア語に翻訳されていった。インドの医学書も中世ペルシア語からアラビア語に翻訳され、それに伴ってアラブの学術用語も一段と整備されたものに変わっていく。またこの時代には、ササン朝の宮廷文学がアラビア語に翻訳され、これをもとにイラン系の書記たちは道徳や処世訓を語るアダブ文学を開拓してイランの伝統をイスラーム文化に移植するうえで大きな役割を演じた。

タラス河畔の戦い(751年)後、中国の製紙法が西方に伝播したのはあまりにも有名であるが、中国起源の錬金術もホラーサーン地方のマニ教徒の手を経てイスラーム世界に伝えられた。ムスリムたちはアレクサンドリア起源の錬金術とこの中国の錬金術とを融合してイスラームに独自な錬金術を発達させたのである。また広州や泉州に居留地をつくって中国と交易したムスリム商人は、絹や陶磁器を輸入すると同時に、それらの製造技術を西方に伝える役割を果たした。唐三彩に刺激されたイスラーム三彩陶の出現はその典型といってよいであろう。

ヤルムークの戦い(636年)でシリアを失い、次いでエジプトをも手離すことになったビザンテイン帝国は、ムスリム勢力に対して抜き難い恐怖心と敵憮心とを抱いていた。しかしムスリム側はビザンツから築城や水道施設をはじめとする種々の都市建設法を学んだし、ユダヤ商人を介してスラヴ人やルーム(ギリシア人)奴隷中心の商取引も続いていた。一方、西ヨーロッパについてみると、高度に発達した都市文明を持つムスリムがヨーロッパから学ぶべきものはあまりにも少なかった。十字軍時代においてさえ、砂糖の製法や棉の栽培法、あるいは紋章使用の習慣などを故郷に持ち帰ったのは逆にヨーロッパ人の方であった。12世紀後半になると、ヨーロッパのアラブ熱はますます盛んになり、アングルシアのトレドを中心に各種のアラビア語文献がラテン語に翻訳された。例えば、クレモナのジェラルドによってラテン語訳されたイブン・シーナーの『医学典範』は、16世紀に至るまで医学教育の教科書として広く使用され続けた。

しかし、イスラーム文化の受容がこのように熱心に行なわれたにもかかわらず、イスラームに対するキリスト教徒の偏見は容易に是正されなかった。イスラームをマホメット教と呼び、ムスリムをキリスト教文明の辺境に住む野蛮人とみなす考えは、20世紀に至るまでおおかたのヨーロッパ人の間で「常識」として受け継がれてきたのである。

開かれた世界

イスラーム法によれば、シャリーアの施行されるところが「イスラームの館」であるのに対して、それ以外の地域は聖戦の対象となる「戦争の館」(ダール一アルハルブ)に属すものと規定される。しかし、異教徒の世界に対して常に戦争をしかけることは、現実には不可能であった。歴史的にみれば、むしろ「イスラームの館」は外に対して開かれた世界であって、そこには異民族の移住者や改宗者を自らの社会に組み込む一定の秩序が存在したのである。

例えば、ウマイヤ朝時代に改宗して都市に流入したペルシア人は、マワーリーとして改宗親であるアラブの有力者と個人的な人間関係をとり結んだ。確かにマワーリーがアラブ人女性と結婚することは難しいという身分上の差別は存在したが、しかしこの場合でも、三代を経ればアラブ人女性と相当(カファーア)であるとする慣行が生きていた。またトルコ人やスラヴ人、あるいはギリシア人やアフリカの黒人などは、多くの者が奴隷としてイスラーム世界にもたらされた。彼らは職業軍人や家内奴隷として社会的に重要な役割を演じたが、結婚、蓄財、信仰などの自由を認められていた点で、全人格を所有された奴隷とは明らかに異なる存在であったといえよう。オスマン朝のデヴシルメの制度にもみられるように、イスラームの奴隷制度は人材開発のための機構でもあったことに注意しなければならない。

もちろんマワーリーや奴隷以外に、自由人としてイスラーム社会に重要な地位を占める外来者も少なくなかった。トルコ人やクルド人のなかにはイスラーム時代の初期から軍人として重きをなす者があったし、13世紀には多数のモンゴル人がエジプトに移住してイスラームに改宗した。

これらのモンゴル人はワーフイデイーヤ(来移者)と呼ばれ、その有力者の多くはマムルーク軍人の娘と結婚してアミール位を授与されたのである。前述したように、ムスリム商人たちはイスラーム世界の外に向かって活発な商業活動を続けてきた。この活動は異教の地にイスラームとイスラーム文化を伝えるきっかけとなったが、逆に外縁部の人びとは高度な物質文明に引かれて、個人で、あるいは集団でイスラーム世界の中心部へと移住してきた。イスラーム社会には、ムスリムとしてであれ、ズインミーとしてであれ、これらの外来者を積極的に受容する「器」が用意されていたのである。この事実は、中世イスラーム国家ばかりでなく、現代イスラーム世界の国家の性格を考えるうえでも貴重な示唆を与えてくれるにちがいない。