北アフリカに進出したアラブの征服軍は、ベルベル人の執拗な抵抗に会いながらも西進を続け、711年にはジブラルタル海峡を渡ってアングルシアに進入した。732年、トヮール・ポワティエの戦いでフランク軍に敗北を喫したが、すでにこの時までにはアンダルシアの大半がアラブ軍の支配下に入っていた。ウマイヤ朝はコルドバに総督府を置いて支配の拠点としたが、後ウマイヤ朝時代に入ると、コルドバは西方イスラーム文化の中心として東方のバグダードに匹敵する繁栄ぶりを示した。
9世紀には原住民のイスラーム化が著しく進み、キリスト教徒のなかにもイスラーム文化の魅力にひかれてアラビア語を修得しようとする者の数がしだいに増大していったという。しかし、ムスリムから領土を回復しようとするレコンキスタの運動も徐々に拡大し、1492年にはグラナダが陥落して8世紀に及ぶイスラームのアンダルシア支配に終止符が打たれた。
一方、改宗した後のベルベル人は熱心なイスラーム教徒になり、11世紀半ばには西サハラにムラービト朝(1056-1147年)を建国、アンダルシアヘ侵入すると共に、南下してスーダンのイスラーム化に道を開いた。続いて興ったムワッヒド朝(1130-1269年)も北アフリカからアンダルシア南部の地域を領有して強勢を誇ったが、ラス・ナバス・デ・トロサの戦い(1212年)でキリスト教徒連合軍に敗れてから衰退に向かった。その後の北アフリカはハフス朝(1228-1574年)やザイヤーン朝(1236-1550年)などの諸王朝が割拠するところとなり、16世紀半ば以降はモロッコを除く北アフリカの大半がオスマン朝の支配下に組み込まれていく。
西アフリカのイスラーム化は、ムラービト朝の征服活動によるばかりでなく、現地に住み込んで交易に従事したアラブ商人の活躍の所産でもあった。しかし東アフリカでは、10世紀頃からすでにアラブ商人の進出は始まっていたものの、内陸部原住民の改宗は一人世紀に至るまで遅々として進まなかった。アフリカ中央部についてみても、イスラームが浸透するのは一人世紀以降のことであり、改宗した現地政権による聖戦(ジハード)と神秘主義教団(カーディリー教団やティジャーニー教団など)の活動によるイスラーム化が進行しつつ現在に至っている。
インドと東南アジア
インド亜大陸にイスラームをもたらすきっかけとなったのは、8世紀初頭に行なわれたアラブのシンド征服であった。この地方を通じてイスラームはまずインドに波及し、逆に古代インド文明の成果がバグダードに招来されたのである。また南インドの海岸地帯に来住したムスリム商人も、15世紀に至るまでは、イスラーム文化を伝えるうえで少なからぬ役割を果たしていたに違いない。これに対して、北インドのイスラーム化は、ガズナ朝(977-1186年)のパンジャブ地方征服によって著しく進んだ。トルコ系軍人による支配はデリー・スルタン朝(1206-1526年)を成立せしめる布石となり、さらに13世紀以降は、スフラワルディー教団やチシュテイー教団の活躍によって神秘主義思想が民間に浸透した。ムスリムによるインド支配はヒンドウーの有力者の協力を得て行なわれたから、歴代の君主はヒンドゥー教徒をおおむね寛大に扱い、この政策はムガル朝(1526-1858年)にもほぼそのままの形で継承されたとみてよいであろう。
インドを経て東南アジアにイスラームが及んだのは、13世紀末以降のことであったとされている。スマトラ北部に改宗者があらわれたのに続いて、マラッカ王国(1290年代-1511年)の君主がイスラームを受容したことにより、この王国は東南アジア最初のイスラーム王朝となった。イスラームを伝達したのは香料貿易にしたがうムスリム商人であったことは確かであるが、16世紀以降、ジャワやスマトラの内陸部の住民たちが、植民地化をねらう西欧列強のキリスト教に反発してイスラームを選んだ事実も無視することはできないであろう。東南アジアに伝えられたのは、中央アジアやアフリカの場合と同じく、神秘主義的な色彩の濃いイスラームであった。それだけに現地の習俗と混清する度合も強く、地域によってはアニミズムの要素も少なからず残されていた。しかし、『コーラン』とスンナの戒律だけは信仰の核として厳しく守られており、これがイスラームを地方文化の伝統の中に埋没してしまうことから救う要因となったのである。